一緒に富士山登りたかった

息子を想う母のブログです

辛い季節

来月3月は息子の3回目の命日を迎える


亡くなる1ヶ月程前から急に様子がおかしくなった息子


帰宅が遅くなる時や外泊する時には連絡を忘れない息子が何の連絡もなしに帰宅しなかった2月18日

その日からすべてが始まった。


友達と飲み明かしたのかな…


‘どうしたの?’

翌朝、私が送ったLINEに既読が付かない。

おかしいと思い始めていたところに、県外の警察署からTEL。

息子が××の山で低体温症で動けなくなり保護されているので迎えに来るように、とのことだった。

慌てて車で2時間程のその場所に行くと、

罰が悪そうに背中を丸めてうな垂れる息子の姿があった。

警察、息子の話では

友人と3人で山に行く約束をしたものの、予定変更になり、1人で行くことにした。

山でお酒を飲み眠ってしまった。側の湖に足を入れたようで(記憶ない)身体も濡れ低体温症で動けなくなっているところを、朝方、偶然に通りかかった人に助けてもらった、とのことだった。


病院にも連れて行かれたようで、低体温症で靴も履けないほど足が腫れ上がっていた。


無事な姿を見て安心はしたものの私は半信半疑…

「もしかして…   死のうとしたんじゃないの」

私の問いに、いつものように笑って否定した。

もういつもの息子になっていた。


大学の山岳部で山行訓練だの、オリエンテーションだの、幾度となくその山に行っていたこともあって、私は息子の話を信じてしまった。


でもその後も似たようなことが2度続いた。

もうこれはおかしい…   

問い詰めたところ、息子は認めた。


「もうやり切った…」そう言った。

訳がわからなかった。


家族で何度も話をして、私達にとってかけがえのない存在、自分を大切にして欲しい、と繰り返し伝えた。

息子は「もう死なないと決めたから、大丈夫」と言ったのに…逝ってしまった。


今思うと何度も救うチャンスはあった。

もう大丈夫と言った言葉に安堵し、事の深刻さに気付いていなかった。

息子の、笑顔の奥に秘めた苦悩が分からなかった。

私達を心配させまいと必死に笑って平静を装っていたんだと思う。


突然、我が家に嵐が吹き荒れた1ヶ月、

気が付いたら、息子とそれまでの平穏な生活全てが嵐と共に消え去っていた。

そんな感じ…


我が子でありながら、胸の内を理解してあげられないもどかしさ、無力感

助けられなかった懺悔の思い

この時期になるとあの時の混乱を思い出し、身の置き所がないほど辛い。


どんな言葉をかければ息子の心に響いたのだろう。

あぁすればよかったのか、

こう言えばよかったのか、

そんなことばかり考えてしまう。


今も、お芝居のワンシーンを演じているような、

その芝居が終われば息子はひょっこり帰って来るような、未だにそんな気がしてならない私。


1年で最も辛いこの季節は息子を守り通せなかった私の試練の時間。

息子の苦しみを思う時、逃げずにこの悲しみを真正面から受け止めることが私に出来る懺悔なんだろう。


泣いてばかりいると、きっとまた息子は罰が悪そうに下を向いてしまうから、

息子には幸せに、そして笑顔でいて欲しいから、

息子が望むであろう生き方をしないといけない。

それが中々難しいけど、少しずつ時間をかけながら…


私だけは息子の取った行動を認めてあげよう。

「よく頑張ったね、お疲れ様、

そんなこともあるよね」って声をかけてあげたい。